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カレンダーPlus by 風柳亭

2008.08.07

若かりし頃の伯父、三途の川から戻る

昨日は広島に原爆が投下された日です。
9日は長崎。
祖母はピカッ!という閃光を家の中で見て、慌てて外に出てみたらはるかかなたの空に、もくもくと巨大なきのこ状の雲が立ち昇ったのを見たそうです。
後日、それが長崎に落ちた原爆だったとわかったそうですが、実は父のすぐ上の兄に当たる伯父が、戦時中に祖父と喧嘩して家出して逗留していた先が長崎だったらしいので、もし伯父がそのまま家出していたら被爆していたかもしれません。
第二次世界大戦は私にとっては遠い話ではなく、祖母の思いと共に疑似体験した世界です。

さて、その伯父ですが若い頃病気かなにかで危篤状態になったことがあったそうです。
その際、伯父はとてもきれいな花が一面に咲いている場所にいてなんだかとても気持ちがよかったらしいのですが、遠くから自分を呼ぶ声がして、それに気を取られたところで、ぐい、と引き戻される感覚が来た次の瞬間意識を取り戻したそうです。
その時枕元で「兄しゃん(あんしゃん)、兄しゃん、…」と伯父を呼び続けたのが父だったそうで、以前向こう側に行きそうになった人間でも名前を呼び続けているとこちらに戻ってくる時もあるという話を聞いたことがあったそうで、その時はかなり辛抱強く呼びかけたとのことでした。
伯父はあのお花畑が三途の河原だったのかも…と言っていたそうです。

これを聞いた当時の私は「ふぅ~ん」そんなこともあるんだ…としか思っていなかったのですが、父が危篤の際に本当に呼吸が止まる寸前まで私の言葉に返事を返してくれたのを見て、人間は最期まで感覚があるのだと改めて認識した次第です。

2008.01.24

ふな焼き

今回は父の話ではないけれど、おそらく父も食べたであろう、素朴なおやつの紹介。

名称は「ふな焼き」。
ちゃんと筑後地方の昔のおやつとして存在していたんですねぇ。

私が小さい頃、同居していた祖母が一年中あった練炭火鉢で卵焼き用フライパンを使って作ってくれていました。
戦中・戦後のものがない時代に貴重な黒砂糖をこのおやつだと頭数の多い子供全員に食べさせることができるので、昔はよく作ったということでした。
戦争の話は祖母にとってとてもつらい出来事が多かったようで、またわたしが小さかったこともありなかなか話題にはなりませんでしたが、その中での貴重な思い出です。

作り方はCOOKPADにありました。
レシピ ふな焼き~懐かしのおやつ(2)~ by yui-nui
(補注:タイトル部分の数字の丸囲い2は(2)に変更しています)

わたしはこれを一口大などに切るより先に、アツアツの出来立てを丸かじりしていました。
本当においしかったなぁ。
きっと火鉢でゆっくり作っていたのでよけいにおいしかったのだと思います。
今ガス火で作ってもあの時のおいしさが復活するかどうか怪しいので、次回キャンプの時にでも試してみようかなぁ…

ちなみにこのyui-nuiさんのレシピの(1)の方も食べていました。
これもやはり食糧難の時代におなかを満たすためにサツマイモを小麦粉などでくるんで『かさ』を増やして量をごまかすためにやっていたと祖母は言っていました。
お米が手に入らない時代に『飽きるほど』食べていたとのことで、たまにしか祖母が作らず、年に1度食べるか食べないかでしたが、皮の小麦粉の塩気が強い方が美味しかった記憶があります。

2007.09.25

今年のお彼岸

今年のお彼岸は、父は家人の母の姉妹に囲まれたらしいです(^^;)

同じ県内に住んでいる家人の伯母の家に姉妹で墓参りに行った際に温泉に行こうということになり、近場の温泉が父の墓地の近くなのでそこに行く途中みんなで立ち寄ってくれたらしいです。。
四姉妹+家人の父と久しぶりに女性に囲まれた父はびっくりしたでしょうね(^^;)
その時に、父が胃がんの告知を受けた次の日にそこの墓を買った話を伯母たちにしたらしく、感心されたとのこと。

まあね。告知された次の瞬間、隣のホスピス病棟に走っていった父ですから。
たぶん、あの当時の話は緩和ケアが当たり前になりつつある今でも同じことをやる人はまずいないと思います(^^;)

#もし同じことをやるとしたら、わたしの可能性大(爆)

2007.05.18

泥染めの兵児帯

今日は、のんびりとお嬢さんと過ごした一日で、取り立てて書くこともないので、久しぶりに父の思い出話。

父が50前くらいの時、尿路結石(たぶん)で当時やっていた店の裏にある総合病院(病院の裏に店があったとも言う ^^;)に入院したことがあります。
見つかった結石はどうも小さなものだったらしくて、自然排出させるための利尿剤の点滴を受ける以外は他にすることもなく、あまりの暇さにしょっちゅう店を覗いてたようです。
そして挙句には、病院の寝巻きが気に入らないと、近所のお店で数万円する単の着物と40万の泥染めの絞りの兵児帯を買って、それを着こんで得意満面名な面持ちで近所を闊歩したらしいです。

ご近所は「あの人入院してるんだよね?」と半ば呆れ顔。
すみません。そういう人なんです。うちの父は。
と、なぜか家族は低姿勢で謝っていました。

#こういう人を家族にもつと自然と頭が低くなるかも(苦笑)

これには後日談があって、小さい結石の割にはなかなか排出されずに予想外に入院が長引いていた父は、病院の中といわず外といわず、あちこちうろうろしていたみたいです。それで、そんな父を見かねた親切なその病院のお医者さんの一人が、ビールが利尿作用が高いし良いだろうと、勤務明けの夜、父を飲み屋に連れて行ってビールを飲ませようとしたらしいのですが、大下戸の父はビール1杯で一升瓶を飲み干したように真っ赤になったため、ビール作戦は速攻で断念。
次の日から毎日2リットル入りのペットボトルのお茶を飲み干すように言われたそうです(笑)
その甲斐あってか、その数日後に結石が出てきて無事退院となりました。
病院の皆様、ご迷惑をおかけしました(^^;)

2004.09.23

お彼岸

なんて全く関係ありませんでした。
明後日は生きていたら父親の74歳の誕生日のはずだったので、本当は秋のお彼岸は何かしてあげないといけないんだけど、どうも季節感がないですよ。

父親の最後の誕生日は中秋の名月と重なったのでホスピスで盛大にパーティーをしてもらって、大口あけて嬉しがってる写真が残っています。
でも、父親は変なやつだったので、元気な時はプレゼントなどもらうと借りを作るのでいらないと突っぱねてたのよね。だから初ボーナスで送ったものも、父の日に送ったものも使ってなかったみたい。
(大切にしまってたのか?にしてはどこにもなかったぞ〜)

そういえば、小さい頃、出稼ぎに出ていた父の帰省時に「こどもお化粧セット」を頼んだら、なぜか「楽しいお風呂セット」になって手元に来ました。
田舎だったせいか、そういうこじゃれたものをほしがるのはおませな証拠でよくないと親戚一同判断して、父親と協議したらしい。

いや、もうそんな心配する時期はとっくの昔に過ぎてましたよ。
当時姉が買ってきていたりぼんやマーガレット(月刊)を読み漁っていたくらいだったから。
父親からすれば、しばらく会わないうちにどんどんこまくしゃれていく娘の姿にとまどったでしょうねぇ(^^;)


それにしても陰暦のカレンダーを買ったときはけっこうそういうのに気づいてたんだけどなぁ。
ここ数年はぷうぷうシリーズかminiシリーズ、もしくは病院やショップからもらった動物系カレンダーに席捲されていて陰暦のカレンダーは買ってないです。
和裁もはじめたし、来年のには1セット買うか、ネットから拾ってくるかどちらかですね。
しかし陰暦のカレンダーをネットで配布してる人なんかいるんだろうか?
と思って探したら暦屋さんというのを発見。来年はお嬢さんの写真で手作りカレンダー?(間違っても父親の写真は使えません ^^;)

2004.04.27

ローラースケート

60半ばもすぎた頃。
腰痛と運動不足を実感していた父は、放置されていた弟のローラースケート靴を発見して、これ幸いとばかり庭先で滑り始めたらしいです。

そしてそれから毎日15分くらいは練習していたらしく、1年くらい経った頃には、なんと支えなしでバックもできるようになっていました!

父が入院する直前の98年には、GWで帰省した私達にすっごい自慢げにこの技を披露。
運動音痴のパートナーは「お父さんすごい!自分はとてもできない」とただただびっくりしておりました。

そしてそれを見ながらいかにも楽しそうに、
「やってみるとこりがけっこうおもしろかじゃん。おまえもやってみっとよか」
(やってみるとこれがけっこうおもしろいんだよ。おまえもやってみるといいよ)
と言いながらゆっくりながらもターンしたりバックしたりを繰り返す父。

いや、普通はやらないですよ。ってか、普通はその年齢でヘルメットもなしでチャレンジはしないです。

やはり爆走パワーの元はあったのでした。。。。。(^^;)

2004.04.20

上野その後

上京初日の夜はホームレスの方々の親切で風邪も引かず過ごした父でしたが、その後も何かと運強かったみたいです。

その後東京見物をしながらフラフラしていたらしいのですが、歩きつかれて、場所もよくわからなくなったので、タクシーに乗ったところ、世間話をしているうちに運転手さんの出身が同じ福岡だということがわかり、しかも父はあてもなくフラフラしている最中ということを言ったらしいのです。

そうしたら、その運転手さん、なんと「今夜泊まるところがないなら、うちに来なさい」と父に言ってくれて、その日は運転手さんのアパートで一晩を過ごすことができたのでした。

九州から東京まで出てきた人は、昔の人であればあるほど、武田鉄矢の歌ではないけれど、めったなことでは帰らないと決心してる人が多かったし、実際今よりも時間も費用もかかっていたでしょうから、東京に出てきた同郷人には親切になりがちなんです。

この同郷意識はかなり強烈な上に、福岡県人は日本の中でもかなり自分の出身地にプライドを持っている方らしいと某公共放送局の「日本のことば」という番組で言っていました。
たしかに父の時代から数十年経った今の東京に出てきて知り合った福岡県人でも、ほとんどの人が「いつかは帰るぞ」と言っています。
就職で無理やりこちらに飛ばされた人で、福岡に帰りたいがために転職した人もいます。
わたしも上京してから幾度となく、同郷というだけで親切にしてもらった経験があります。

それでも出会ったばかりの父を自分の家に泊めてくれるなど、なかなかできることではありません。
その方は本当に親切な方だったんだと思います。

本当にありがとうございましたm(_ _)m

#それにしても父の運の強いこと!(^^;)

2003.12.26

上野公園でも助けてもらいました

最初の父の思い出話は、父が若い頃の話です。

たぶん時期は第二次世界大戦の爪痕からようやく復興し始めた頃のことだと思います。
仕事にあぶれていた当時20代だった父は、一度東京に出てみようとふと思い立ったらしく、列車で上京しました。
当時はもちろん新幹線もなく、列車で、しかも東京駅ではなく上野が終着駅でしたから、父は終着駅の夜の上野に降り立ったらしいのですが、そこは「フーテンの寅さん」が理想だった父のこと、当然頼るあてもなにもなく、その晩は上野公園のベンチで過ごすことにしたらしいのです。

適当な場所を探してさて寝るかと横になった時、近くにいたホームレスのおじさんがおもむろに「そんな格好で寝るのかい?それじゃぁ、風邪引くよ〜。これ貸すからこれで寝なさい」と声をかけてきたそうです。
そして渡されたのは、
「そりがまあ、のみしらみのこぅたかっとるごたる汚〜なか毛布と新聞紙やったたい」
(訳:「それが、まぁ、のみしらみがいっぱいたかっているような汚な〜い毛布と新聞紙だったんだよ」)
………
………

そして父はありがたくそれをお借りして、寒さを感じることなく一晩過ごしたそうです。。。。

#いったいどんな格好をして上京したの?(^^;) >父

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